敬老の日が近づくたびに、かつては賑やかに彩られた祝いの品々が、年々寂しくなっていくことに気づく。予算が厳しいとの言葉を聞くようになったのは、いつからだろうか。立派な贈り物や、心のこもった品が主役だった時代は過ぎ去り、今では何かを選ぶにも経費削減の波に押されている。
お祝いの席で手渡される品は、心の表れでもあったはずだ。しかし、次第にそれは形式的なものへと変わっていき、予算の範囲内で選ばれた品物は、どこか味気ない。品物の質や価値よりも、手渡す側の事情が透けて見えるようで、贈られた側にとっても寂しさが募る。
敬老の日が形骸化していくのを感じるたびに、思う。果たして、品物の豪華さが本当に大切だったのだろうか。答えは否かもしれない。しかし、年々予算が縮小される今、何を大切にするべきかが見失われているような気がしてならない。
心よりも先に予算が優先されるこの時代、敬意はどこに置かれているのだろうか。かつての温かい気持ちを思い出しながら、心のこもった贈り物が、再びその価値を取り戻す日を願っている。